(聞き手)
震災前には、どのような備えや
訓練をしていたのですか。
(森中様)
平成18年に、当時のソニー株式会社の仙台TEC担当の事業本部長より、「
BCP=事業継続計画について学び、災害時に重要業務が中断しないように備える」旨の指示を受け、計画的にハード面での施策を実施してまいりました。それと同時にソフト面での
訓練の大切さも再認識し、平成19年より災害対策本部として
BCP訓練を繰り返し実施してまいりました。当センターでは、有機溶剤などの危険物を取り扱っているため、少しでも
安全性を損なうことがあれば、大きい事故につながる可能性は否めません。そのため、日頃からリスク低減はもちろんのこと、いざ、災害が発生した場合、社員一人一人が自分の身を守るという意識をもって、
訓練に取り組んできました。
法的に防火管理者は敷地に1人いればいいのですが、当センターでは入居棟すべての
防災責任者に、防火管理講習を受けさせました。そして、ブロック消防団という自衛消防隊の組織をつくり、年に2回ずつ
訓練をしてまいりました。
また、当センターの一部の製造部署では24時間操業していますので、交替勤務者の初動避難
訓練に加え、一般社員の残業者の避難
訓練も繰り返し行っていました。それも功を奏し、今回の震災でも、結果的に1,159名の社員から1人の怪我人も出さずにすみました。津波が来て慌てて逃げ込んで来られた一般の方を含めると、当センターには約1,300名の方がいましたので、全員が助かったという意味では、やはり社員1人1人の意識と、繰り返し教育をし続けてきたことが功を奏したと思っています。
(聞き手)
消火
訓練と地震
訓練はしていたということですが、津波を意識した
訓練は行われていたのでしょうか。
(森中様)
消火
訓練や地震に備えての
訓練は、従来より、繰り返し実施していました。また、津波に対する備えとして、震災の前年にチリ地震により太平洋沿岸に津波警報が出ましたので、その時に災害対策本部を立ち上げ、生産を止めて高層階に避難したという経験がございます。この時から、津波が来た場合の高層階への避難をより考えることになりました。
(聞き手)
訓練自体はしていたのでしょうか。
(森中様)
津波に対する特別の
訓練ということではなく、チリ地震での経験により、津波対策を意識した、その備えとする
訓練をしていました。
(聞き手)
チリ津波で少なくても津波に関して意識はしていたということですね。そうした場合、地下に埋設されている機器類がたくさんあると思うのですが、その対策はできていたのでしょうか。
(森中様)
宮城県沖地震が起き、津波が来ても、地下に埋設されている機器類が
被害を受けないレベル(50センチ程度)の津波を
想定していました。
(大崎様)
その建物は、元々、津波を
想定したものではありませんが、1メートルほど底上げしていました。多賀城は、全般的に土地が低いので、大雨が降ると浸
水のおそれがあったためです。昔は国道45号の多賀城中学校前は浸
水区域でしたが、桜木地区にある弊社も、過去2回ほど大雨による浸
水の
被害を受けたことがありました。
(聞き手)
発災時の行動や対応についてお聞かせください。
(森中様)
地震発生直後、災害対策本部を設置し、社員を一度屋外に避難させましたが、TV報道で津波警報が発令されたのを受け、弊社敷地内に避難してきた近隣住民の方々も含めて約1300名をセンター内に避難させることとしました。次いで、地震発生の20分後には、津波発令を知った近隣の
企業に勤務する約200名の方々も、私どもの会社に避難を求めていらっしゃいました。その時点では、前述の約1300名の高層階への避難が済んでいませんでしたので、混乱を防ぐためにも、その時点で津波到達予定時刻まで、まだ1時間ほどの猶予がありましたので、本当に申し訳なかったのですが、多賀城市の指定避難場所に行っていただくようお願いしました。あとで近隣
企業の社員さんたちは、全員無事に、多賀城市の避難場所に避難できたことをお聞きし、安心いたしました。
その後、津波が押し寄せて参りました。
津波から逃げきれなかった方々が、街路樹に掴まっていたり、塀に登って助けを求めたりしていました。辺りは真っ暗でボートも無かったのですが、社員が製品のパレットをロープで縛って筏にして、何名かを救助することができました。
後日、わざわざ、御礼にいらした方もいました。
当時、災害対策本部としては、目の前で津波から逃げ後れている人を一刻も早く救助しなくてはならないという思いと、社員の
安全も守らなくてはいけないという葛藤がありました。社員から「津波から逃げ遅れた人を助けに行きたい。」と言われ、「行って来い。」とも、「行くな。」とも言うことができず、そこの判断が一番苦労したところでした。
(聞き手)
地震が発生した時点で津波が来るということは予見していましたか。
(森中様)
今回の地震は、昭和50年代の宮城県沖地震の揺れとは比べものにならない大きさでしたので、直感的に津波が来ると思いました。私は七ヶ浜町在住で、小さい頃、親から
チリ地震津波の話を聞かせられていたこともあり、さらに、ニュースで津波が来るというのが分かったので、津波の来襲は間違いないと思いました。
(大崎様)
実は津波の3カ月前に弊社が主催し、多賀城工場地帯
連絡協議会が共催した、貞観地震や津波の話に関連したセミナーを開催していました。産業技術総合研究所の活断層研究センター長にお越しいただき、お話を聞いていたのです。今後とも、数々の警鐘を謙虚にきちんと受け止めて、日本全体で対策に取り組んでいく必要があると感じています。
(聞き手)
講演に参加していた工業地帯の方が、震災の時に実際どう感じたのかというのは興味があります。その時はどれくらいの方が講演に来られていたのでしょうか。
(森中様)
多賀城工業地帯
連絡協議会の会員の方がほとんどで、弊社の社員も含めまして約200名が来ていました。聴講者のほとんどは、津波の高さは50センチメートルから3メートル程度だろうという固定観念の中で、予想もしなかった事がおきたという感覚だったろうと思います。