防災・減災への指針 一人一話

2014年02月06日
地域のリーダー的企業として ―防災・地域貢献の役割―
ソニー株式会社 仙台テクノロジーセンター代表
大崎 博之さん
ソニー株式会社 仙台総務室 TEC防災GPマネジャー
森中 雅信さん

震災前の備えとしてのBCP訓練

(聞き手)
 震災前には、どのような備えや訓練をしていたのですか。

(森中様)
平成18年に、当時のソニー株式会社の仙台TEC担当の事業本部長より、「BCP=事業継続計画について学び、災害時に重要業務が中断しないように備える」旨の指示を受け、計画的にハード面での施策を実施してまいりました。それと同時にソフト面での訓練の大切さも再認識し、平成19年より災害対策本部としてBCP訓練を繰り返し実施してまいりました。当センターでは、有機溶剤などの危険物を取り扱っているため、少しでも安全性を損なうことがあれば、大きい事故につながる可能性は否めません。そのため、日頃からリスク低減はもちろんのこと、いざ、災害が発生した場合、社員一人一人が自分の身を守るという意識をもって、訓練に取り組んできました。
法的に防火管理者は敷地に1人いればいいのですが、当センターでは入居棟すべての防災責任者に、防火管理講習を受けさせました。そして、ブロック消防団という自衛消防隊の組織をつくり、年に2回ずつ訓練をしてまいりました。
また、当センターの一部の製造部署では24時間操業していますので、交替勤務者の初動避難訓練に加え、一般社員の残業者の避難訓練も繰り返し行っていました。それも功を奏し、今回の震災でも、結果的に1,159名の社員から1人の怪我人も出さずにすみました。津波が来て慌てて逃げ込んで来られた一般の方を含めると、当センターには約1,300名の方がいましたので、全員が助かったという意味では、やはり社員1人1人の意識と、繰り返し教育をし続けてきたことが功を奏したと思っています。

(聞き手)
消火訓練と地震訓練はしていたということですが、津波を意識した訓練は行われていたのでしょうか。

(森中様)
消火訓練や地震に備えての訓練は、従来より、繰り返し実施していました。また、津波に対する備えとして、震災の前年にチリ地震により太平洋沿岸に津波警報が出ましたので、その時に災害対策本部を立ち上げ、生産を止めて高層階に避難したという経験がございます。この時から、津波が来た場合の高層階への避難をより考えることになりました。

(聞き手)
訓練自体はしていたのでしょうか。

(森中様)
津波に対する特別の訓練ということではなく、チリ地震での経験により、津波対策を意識した、その備えとする訓練をしていました。

(聞き手)
チリ津波で少なくても津波に関して意識はしていたということですね。そうした場合、地下に埋設されている機器類がたくさんあると思うのですが、その対策はできていたのでしょうか。

(森中様)
宮城県沖地震が起き、津波が来ても、地下に埋設されている機器類が被害を受けないレベル(50センチ程度)の津波を想定していました。

(大崎様)
その建物は、元々、津波を想定したものではありませんが、1メートルほど底上げしていました。多賀城は、全般的に土地が低いので、大雨が降ると浸のおそれがあったためです。昔は国道45号の多賀城中学校前は浸区域でしたが、桜木地区にある弊社も、過去2回ほど大雨による浸被害を受けたことがありました。

(聞き手)
 発災時の行動や対応についてお聞かせください。

(森中様)
地震発生直後、災害対策本部を設置し、社員を一度屋外に避難させましたが、TV報道で津波警報が発令されたのを受け、弊社敷地内に避難してきた近隣住民の方々も含めて約1300名をセンター内に避難させることとしました。次いで、地震発生の20分後には、津波発令を知った近隣の企業に勤務する約200名の方々も、私どもの会社に避難を求めていらっしゃいました。その時点では、前述の約1300名の高層階への避難が済んでいませんでしたので、混乱を防ぐためにも、その時点で津波到達予定時刻まで、まだ1時間ほどの猶予がありましたので、本当に申し訳なかったのですが、多賀城市の指定避難場所に行っていただくようお願いしました。あとで近隣企業の社員さんたちは、全員無事に、多賀城市の避難場所に避難できたことをお聞きし、安心いたしました。
その後、津波が押し寄せて参りました。
津波から逃げきれなかった方々が、街路樹に掴まっていたり、塀に登って助けを求めたりしていました。辺りは真っ暗でボートも無かったのですが、社員が製品のパレットをロープで縛って筏にして、何名かを救助することができました。
後日、わざわざ、御礼にいらした方もいました。
当時、災害対策本部としては、目の前で津波から逃げ後れている人を一刻も早く救助しなくてはならないという思いと、社員の安全も守らなくてはいけないという葛藤がありました。社員から「津波から逃げ遅れた人を助けに行きたい。」と言われ、「行って来い。」とも、「行くな。」とも言うことができず、そこの判断が一番苦労したところでした。

(聞き手)
地震が発生した時点で津波が来るということは予見していましたか。

(森中様)
今回の地震は、昭和50年代の宮城県沖地震の揺れとは比べものにならない大きさでしたので、直感的に津波が来ると思いました。私は七ヶ浜町在住で、小さい頃、親からチリ地震津波の話を聞かせられていたこともあり、さらに、ニュースで津波が来るというのが分かったので、津波の来襲は間違いないと思いました。

(大崎様)
実は津波の3カ月前に弊社が主催し、多賀城工場地帯連絡協議会が共催した、貞観地震や津波の話に関連したセミナーを開催していました。産業技術総合研究所の活断層研究センター長にお越しいただき、お話を聞いていたのです。今後とも、数々の警鐘を謙虚にきちんと受け止めて、日本全体で対策に取り組んでいく必要があると感じています。

(聞き手)
講演に参加していた工業地帯の方が、震災の時に実際どう感じたのかというのは興味があります。その時はどれくらいの方が講演に来られていたのでしょうか。

(森中様)
多賀城工業地帯連絡協議会の会員の方がほとんどで、弊社の社員も含めまして約200名が来ていました。聴講者のほとんどは、津波の高さは50センチメートルから3メートル程度だろうという固定観念の中で、予想もしなかった事がおきたという感覚だったろうと思います。

チリ地震津波の記憶

(聞き手)
 チリ地震津波の経験に関してお聞かせ頂けますか。

(大崎様)
昔のチリ地震については知っています。子どもの頃、津波で大きな船が昔の本塩釜駅前の国道45号上に打ち上げられていたのを実際に見たことがあります。
東日本大震災は、とても強い揺れで、窓が落ちたりしましたが、建物が倒壊することもなく済みましたので、これで長年来ると言われていた宮城県沖地震がようやく終わってくれたと思っていました。チリ地震による津波を経験していても、津波が来るということは頭にありませんでした。
震災当時、私は1つのブロック消防団の防災責任者(団長)を務めていました。私を含めた200名ぐらいの社員は、地震の後、弊社敷地隣のグラウンドに避難していたのですが、インターネットで大津波警報が出ているのを見つけた社員がおり、慌てて災害対策本部に連絡し、敷地内に戻ることにしました。そのとき私は、避難の最中に津波が到達するという最悪の事態になった場合は、グラウンドの周りに張ってある5メートルくらいのネットに社員を登らせなくては、とまで覚悟しておりました。中には体が不自由で走れない社員もいましたし、おそらく大部分の社員のイメージでは、浸かったとしてもせいぜい膝まで程度だと思っていたでしょうから、駆け足で避難をさせるのが大変でした。また、グランドと敷地間の出入口の扉も狭かったので、敷地内に戻し、建物の高層階に全員を避難させるのには思った以上の時間がかかりました。どうにか全員を、無事、高層階に避難させる事ができてホッとしました。

(聞き手)
災害対策本部と避難場所との連絡はどのようにして取っていたのでしょうか。

(森中様)
30機ほどの無線機がありました。災害対策本部のメンバーに無線機を渡し、それぞれの避難所に行ってもらったので、それを通信手段として使いました。

社外にいる社員の安全をも考慮した訓練

(聞き手)
 本部との連絡のやり取りは、スムーズに行えたのですか。

(大崎様)
トランシーバーは、電話と異なり、自分が話している間は、相手の話が聞けないので、どうしてももどかしさがあります。災害対策本部のメンバーは現場にいないので、状況が見えず、そのような状態で、トランシーバーで指示を出すのは大変だったと思います。
当社の社員、及び避難されてきた近隣の方々は、幸い全員が無事でしたが、他の企業さんでは、営業で外に出て近郊を車で走っていらした社員の方が津波で犠牲になられたそうです。私たちの会社でも、もし出張や外出で移動している社員がいた場合、どこまで被害を防ぐことができたかというと疑問はあります。会社の中にいた社員には徹底して訓練しておりましたが、やはりいかなる状況も想定しておかなければならないと思いました。

(聞き手)
外出先などでの行動についても、今後の備えとして必要ということですね。ところで、無線機での連絡態勢を整えたということですが、それ以外に構内放送などは使えたのでしょうか。

(森中様)
津波が来るまでは構内放送が使えましたし、その後は無線機のバッテリーが7時間ほど持ちましたので、無線機同士でやり取りができました。

震災後は非常用備品などを上階へ移動

(聞き手)
災害対策本部は何階にあったのでしょうか。

(森中様)
当初は1階にありましたが、3階に移動しました。

(聞き手)
深夜1時頃に、会社周辺に自衛隊が捜索に来た時、一般の方の救助を依頼したとのことですが、その時は、真っ暗で非常用電源もなかったのでしょうか。

(森中様)
避難場所には懐中電灯を常備してありましたが、会社周辺は真っ暗でした。

(大崎様)
会社周辺は真っ暗で助けを求める声だけが聞こえていました。当日夜の11時くらいまでは非常用のバッテリーが残っており、若干の明かりはありました。その時は、皆、比較的明るく振舞っていましたが、その後、非常用電源が切れて真っ暗になると、会話が無くなり、不安が募っていたので、わざと滑稽な話をして、雰囲気を明るくするように勤めました。ほとんどの社員は、家族とも連絡が取れなかったので、家族の安否も分からずに不安だったと思います。

津波被害を踏まえた補強対策

(聞き手)
 震災前の耐震対策は、どのようなものだったのでしょうか。

(大崎様)
さきほどもお話したように、弊社は有機溶剤を使うのですが、使用済みの溶剤を含む気体を戻すダクトが工場中に通っています。ダクトが壊れて漏れた場合は、最悪のケースでは火災になる事も考えられる上に、復旧には相当な年月がかかります。そのダクトを支えるスタンション(やぐらのようなもの)の耐震工事が2010年に完了していましたので、震災に間に合って、本当に良かったと思っています。

(聞き手)
地震による被害も大きかったと思いますが、津波による被害はどのようなものでしたか。

(森中様)
仙台港からのの勢いが非常に強かったので、特に会社の南側は、車や瓦礫による被害がひどく、中でも貨物コンテナで特にダメージを受けました。

(聞き手)
今回の経験を踏まえ、津波からのダメージを軽減するため、フェンスを補強したということですが、それについてお聞かせいただけますか。

(森中様)
多賀城市を襲った津波は、仙台港方向からのもの、砂押川を遡上してきたもの、砂押川から貞山運河を遡上したものの3方向から押し寄せてきましたので、今後はどの高さを想定して考えるべきか社内で議論し、会社の南側のフェンスで、津波を食い止めることにしました。トラックや貨物コンテナなどが流れてきても壊れないくらいの強度にしました。
また、敷地全体の特高変電所と電源関係は屋上に上げて、地下にあった重要な電気設備もかさ上げしました。

(聞き手)
ここで少し話を戻させていただいて、先ほどの震災直後の夜のお話をお聞かせいただきたいのですが、その時は災害対策本部から命令や指示はきていたのでしょうか。

(森中様)
津波が来てしばらくは、無線機でやり取りができました。それ以降は直接ミーティングを行う機会を定期的に設けることとし、そこでの伝令や情報などを、日に4回ほど、社員に伝えていました。

(聞き手)
社員の方の帰宅は、いつごろから始まったのでしょうか。

(森中様)
震災の翌日には、帰宅困難な410名を残して、その他の社員は明るいうちに帰すことができました。

(聞き手)
翌日朝6時半にはが引いてきていたと思いますが、そのころに帰宅を始めたということでしょうか。

(森中様)
弊社の建物の敷地は産業道路よりも低いので、産業道路はが引いていましたが、構内にはがまだ80センチほどありました。そこで、震災翌日のお昼ごろに帰宅させました。

(聞き手)
帰宅困難者が410名ということですが、災害対策本部や責任者は何名くらいここで残って対応していたのでしょうか。

(森中様)
当時の社員1,200名中、災害対策本部メンバーが約60名残りました。フェンスが壊れて、誰でも入れる状態でしたので、交代で1カ月半くらいの間は必ず2人以上で警備に当たりました。災害対策本部メンバーは5日間家に帰りませんでした。

復旧・復興の歩み

(聞き手)
 会社が復旧するまでの経緯をお聞かせください。

(森中様)
東北電力さんの変電所が全て使えなくなりましたので、本格的に復旧したのは7月後半から8月のあたりでした。それまでの間は仮設非常電源を準備し、さらに、自家発電装置のエンジンを早急に復旧することで、一部生産を再開しました。
5月にはディスクの一部生産を開始し、最終的に8月からすべての製品が生産できました。

(大崎様)
高圧電源復旧には4カ月かかりましたが、現在は東北電力さんの変電所の津波対策が完了しているのでひと安心しています。

次の災害を想定した備蓄

(聞き手)
 今回の震災で、どのような備蓄があると良いと感じましたか。

(大崎様)
電気も大事ですが、あとはの備えも必要だと感じました。津波被害を被った設備や機械を洗浄する際には、大量のが必要だからです。当時は、防災用の建物にある消火栓の海混じりので下洗いをして、トラックで運んできた上で洗浄しました。

(聞き手)
飲料はどのようにしていたのでしょうか。

(森中様)
県北の事業所など、関連会社からペットボトルに入ったを支給してもらいました。他には、自宅が被災しなかった社員が持っていた井戸のをタンクに入れて、毎日トラックで運んでもらいました。

(聞き手)
備蓄はどれくらいの量を備えていたのでしょうか。

(森中様)
1,300名の3日間分の備蓄(や乾パン、毛布など)を備えていました。他にはアルファー米がありましたが、全て1階に置いていましたので津波に浸かってしまいました。しかし、非常時なので、確認して濡れていないものを使用しました。
震災の1週間前にガスコンロで発電できるポータブル発電機を2機購入していました。ガスボンベも数セット備えていたため、蛍光灯、パソコン、テレビを使うことができました。他にはテレビと携帯電話や、衛星携帯電話もありましたので、これらを使い、本社とのやり取りを行っていました。

(聞き手)
災害備蓄品の中には、ランタンや胴長靴、医薬品はあまり用意されていなかったということですが、今回の震災で暗闇を経験したことからすると必要だったということでしょうか。

(森中様)
懐中電灯は20本あっても、結局は一点しか照らせないという難点があります。ランタンは数台ありましたが、周囲を照らせる威力はものすごいと実感しました。震災後、胴長靴を10着、他には組み立て式の手漕ぎボートを準備しました。
その他、ガスコンロで発電できるポータブル発電機も増やしましたし、救命用浮き輪、ハンドマイク、携帯用充電器、クラッカーやなどの食料も充実させました。
アルファー米は400名が3日間過ごせる分を大袋で用意していたのですが、分けるのにも人手が必要でしたので、すでに小分けされているものに変えました。今後は、さらに適正在庫量を考えて、備えていきたいと思っています。

(聞き手)
その他の食料は調達することはできていたのでしょうか。

(森中様)
会社の建物の上層階に売店がありましたので、そこで飲み物とスナック菓子が調達できました。ですが、避難建屋は4棟に分かれていて、それぞれ400~500人が避難していましたので、調達した飲み物の配給は、遅いところで、朝方になってしまいました。

(聞き手)
備蓄をする時は季節も考えて、飲料を多めに用意した方がいいと思いますが、そのあたりの考えはいかがですか。

(森中様)
そうですね。飲み物については災害ベンダーさんと契約して災害救援自販機を置いています。しかし、備蓄の食料には賞味期限がありますので消費の面で課題がございます。賞味期限1年を切ったものなどは国内のボランティアに譲ってもいいのですが、やはり会社として経費も考えながら循環備蓄していかなくてはならないと思っています。

(聞き手)
震災後、復旧には何名の方が作業に当たったのでしょうか。

(森中様)
震災後1カ月は毎日200~400人くらいで復旧作業にあたりました。
外部からの応援もあり、協力会社の方々には1カ月後からクレーンで発電機や大物の片付けを手伝っていただきました。

(大崎様)
県北にある事業所からは、復旧作業支援の他、おにぎりを届けてもらったり、取引業者さんからも様々な支援をしていただきました。

(森中様)
白石や宇都宮、鹿沼の事業所や、他にはグループ会社からも数週間後から物的支援をいただきました。そのときに一番にお願いしたのはやはりとガスボンベでした。

「みやぎ復興パーク」という恩返し

(聞き手)
今回、津波で仙台港の倉庫が被害に遭われたようですが、震災直後、どれくらいの時期に必要な在庫類を出荷したのでしょうか。

(大崎様)
震災の1週間後くらいからだったと思いますが、会社から仙台港の倉庫まで、徒歩や自転車で行き、在庫品を取りだして出荷しました。幸いなことに、市場で品薄になっていた放送局用の商品は、3階に置いていましたので無事でした。エレベーターは止まっていましたが、充電式のフォークリフトを使ってパレットを降ろし、最終的にはバケツリレーで運び出しました。毎日10トントラック2台分の物資を積んで供給していました。
復旧するにあたり、ここ多賀城でしか生産できないものはここで再開し、同時にそれに関わる研究開発も再開することにしました。それ以外のものは福島や厚木の弊社事業所に移管することにしました。
基本的に人員は削減せず、転勤で異動させました。
そして、一部の空いた建屋を復興パークとしてお使いいただこうということで、東北大学総長と宮城県知事に提案し、承諾をいただきました。1)被災した企業や、2)地域の雇用創出につながる用途、3)地域の新たな産業の創出につながる産官学連携の研究開発の場としてご利用いただこうというものです。
結果的に7つの建物を準備し、その運営組織に関して、東経連様や東北大学様に相談にのっていただき、最終的に宮城県の外郭団体であるみやぎ産業振興機構様に運営していただけることになりました。
私どもから、みやぎ産業振興機構様に無償で土地と建物をお貸しするという形で運営がなされる事に成り、震災の年末には2社が入居されました。現在はレタス工場、障害を持つ方の就労支援施設、次世代自動車の研究施設や制御システムセキュリティセンターの研究施設などが入居していらっしゃいます。
これに対して多賀城市は減災リサーチパークという形で、減災に関わる団体の入居について補助を出す制度を作りましたので、いくつかのところは補助を受けて事業活動をしております。
弊社が60年前にこの多賀城に進出した時、宮城県から5年間は土地と建物を無償でお借りしていましたので、その1つの恩返しの意味もあります。
弊社も、震災以前から続けていた研究開発は、学会発表をする段階まで来ていており、さらに新しい開発も始まり、新規ビジネスの創出に向けて進めています。
みやぎ復興パークの本来の目的の1つは、津波や地震の被害にあわれた会社様に、一時的にこの場所を使って事業再開していただき、いずれはご自分の工場を再建していただくというものですので、早期に力をつけて独立していただくことが本当の復興につながると思います。
みやぎ産業振興機構様へは、人的支援もさせていただいていますが、できるだけ地元の企業復興、および新たなビジネス創出につながる研究が進んでいくように願っています。
弊社としましても、大学などの各種研究機関からご指導をいただきながら、新しいビジネスを創出していきたいと考えているところです。

震災記憶の風化を防ぐために

(聞き手)
 最後にメッセージなどはございますか。

(大崎様)
志津川の山の斜面に、ここから下に家を作るなという意味の石碑があるのですが、実際にはそこから下にもたくさんの家が建っていました。漁業を生業とする人にとっては海が近くないと不便だということもあり、忘れてしまうわけです。
平成24年の12月7日に地震がありまして津波警報が出ましたが、多賀城の工場地帯から多賀城駅方向に向かう道路は大渋滞していました。
震災であれだけたくさんの方が車で避難して亡くなったということを忘れないようにすべきと思います。
人間というのは過去を忘れるものです。
「伝えていくこと」は難しいですが、風化を防ぐ取り組みを続けていくことは大事だと思います。